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szene2-56 大好きな人の声


朝、いつも通りに起きて、焼いた食パンにメープルシロップをたっぷりかけて食べてから、もう一度自分の部屋に引きこもった。
消していたエアコンを付けて、ベッドにひっくり返ったら、だんだん気持ちよくなってくる。
あー、怠惰な昼寝って最高じゃない?まだ朝8時40分だけどさ。昼寝じゃないな、朝寝?朝チュン?いやいや、それ意味違う。

文明の利器を使った快適な環境の中で微睡んでいたら、枕元の携帯がやかましく鳴った。
当然、アラームなどセットはしていないわけで、もうひとつ言うなら、鳴り分け設定のおかげで、画面を見るまでもなく非常識な相手もわかるわけで。

非常識は言い過ぎか、電話を遠慮すべき時間帯でもない、はず。
ぶちっ
電源ボタンを押して、強制留守電転送。でも、そんなんで簡単に諦める相手じゃないことは知っている。

間髪入れずに、再び鳴り始めた携帯。
いたちごっこのように僕は電話を切る。そしてまた鳴る。ある種の根気比べに、僕は負けた。
「………なんなの?」
「宗則ぃー!!!!」
やっと繋がった安堵感だか何だか知らないけど、電話の向こうの、予想外の泣き声は、僕の眠気を吹っ飛ばすのに十分な破壊力を持っていた。

「郁彦、今日、検査だって!…お前、病院どこか、知ってる?」
「あー」
今日28日か、そうか。

時計を確認したらとっくに9時を過ぎていた。ふみ兄は、もう出かけただろう。きっと、『いってきます』的なメールを受信して、いてもたってもいられなくなって僕に電話してきたんだろうな、なんて。敦史の行動がまるっと読めた。

「えーっと、今からシャワー浴びてー、着替えてー、10時半くらいかな。南元町駅のホームにいて。一番後ろに乗るから」
「ま、待ってればいいのかよ?」
「いや、ふみ兄迎えに行きたくないんだったら、待ってなくていーけど」

「お待ちしております宗則様ぁっ!!!」
「あー、ハイハイ」
仕方ないな、スタバで許してやろうか。あと、腹筋と背筋触らせてもらおー。

************

ふみ兄が検査に行った眼科とは駅を挟んで反対側にスタバがあることは知っていた。

実はじーちゃんも、ちょっとだけ視野が欠けているらしい。発覚したのが昨年の健康診断で、かなり早く見つかったからあんまり日常生活に支障はないらしい。もう60代だから仕方ないって言ってた。ふみ兄が検査に行ったのは、じーちゃんと同じ病院。

「おいおい、目ぶつけてて、強度の近視で、低血圧で、頭痛もちで、おまけに身内に緑内障患者までいるって、注意報出まくりじゃねーか!」
モカフラペチーノ、ここぞとばかりにグランデサイズ。奢ってもらって、敦史のガチムチの腹筋を触って堪能した後、僕らは2人、スタバで待機していた。

「ついで言うとふみ兄の平熱35.8℃くらいで、超冷え性。…ふみ兄が半袖着ないのって、単に傷隠したいだけじゃなくて本当に寒がりなんだけど、気づいてた?」
「うおっ!!確かにエアコン付けて寝ると朝方、あいつ手足冷てーんだよ!俺は超暑がりの超汗っかきだからさ、くっついてて気持ちいいんだけど!」

「冬は超絶冷たいよ、ふみ兄の手足」
「よっしゃ、俺の愛で暖めてやるわ!」
「あっそ」
まぁ、敦史ならそう言うと思ったけど。

「つーかよー」
もしかして郁彦って、前に俺が調べたサイトに書いてあった『こういう人は気をつけろ』の項目、全部当てはまってんじゃねーの?って、携帯開いて指折り確認を始めた敦史。なんか、やっぱ俺、眼科医になる!…とか言い出しそうな雰囲気じゃない?笠原先生ごめんなさい。

「ふみ兄の低体温とか冷え性ってさー、多分痩せすぎだと思うんだよねー」
「んじゃーお前も低体温?人のこと言えねーくらい痩せてっけど?」
「体質一緒だからねー。ま、そうは言ってもふみ兄、春から見たらだいぶ太ったけど」
「あぁ、自分でも言ってたな。毎日見てると案外わかんねーんだよなー」
「ほれ」

僕が見せたのは、まず1枚目に、昨年僕と名古屋で撮ったプリクラ。2枚目は、こないだ僕の退院前日にタリーズで撮ったやつ。昨年の夏とこっちに来たばかりの頃は、ほとんど変わってない。変わったのは、うちに来て、父さんの『もっと食べなさい』攻撃を受けまくってから。母親と離れて、心労が減ったってのもあると嬉しい。

「2枚共ちょうだいっ!!!」
「………おかわり」
「かしこまりました宗則様!」
まだ少し残ってるカップをつついたら、素早く立ち上がってレジへ向かう敦史。コーヒーだけで済むんだから安いもんだよね。
仕方ないから写真2枚共、敦史の携帯に送っといた。

「お待たせしました宗則様ー!…おおっ、サンキュー!!…ほんとだ、こうやって並べて見ると、今って昨年と比べたらだいぶ顔丸いんだな、郁彦」
携帯の画面に頬擦りしそうな勢いだった敦史が、いきなり何かに気づいたような声をあげた。

「この昨年のプリクラってさぁ、このお前の顔だけアップで、郁彦の携帯に、お前からメール来た時に出る画像?」
「…ふみ兄が設定変えてなきゃそう」
「変わってないぜー!そっかー、お前の顔の横のこの腕って、郁彦だったのかー、むふっ」
「喜ぶとこ、そこなの?」
ふみ兄が設定変えてない…なんて、予想通りだったけどね。そもそもふみ兄が、携帯のカメラ機能を、1回でも使っているのかどうかすら怪しいわけだし。

「それにしてもよー、終わったら連絡くれるって言ってたけど郁彦遅くなーい?もうすぐ2時間だぜ?」
「あー、あそこね、けっこうかかるよ。眼科だけなんだけど総合病院並にデカイんだよね。僕が前に、じーちゃんについてった時も、軽く2時間待たされた」

待合室で、番号順ならあと20人くらいかなーって思ってたら、上の階からぞろぞろ入院患者が降りてきてじーちゃんの前に検診を受けてた。先生は、常時5人くらいいるらしいんだけど。ちなみに、予約してないと、もっと待たされるらしい。

「マジか、すげーな!でも、そういうとこの方が安心だよなー」
「あとあれだよね、検査の結果出るのに時間かかってるのかも。わかんないけど」
電話してきた時は泣いてた敦史だけど、人前では明るく振る舞おうと、無理してるのが見え見え。その証拠に、さっきから休むことなくしゃべってる。

そりゃ僕だって心配だから来たんだけど、敦史は異常って言うか。そりゃ、最愛の彼氏なんだから当たり前だし、全く心配もしないような人だったら今すぐ別れた方がいいって、ふみ兄に進言するんだけどさ。

「で、電話、きた!!…もしもし!」
敦史の指が震えてた。

************

『もしもし!』
電話口に出た敦史の声が怒鳴り声に近いような、すごい勢いだった。
「どーしたの敦史?」
『どーしたもこーしたもねぇよ!し、心配で』
あれ?…なんで敦史泣いてんの?

「心配してくれてありがとう。検査終わったよ。でね、まだ眼科なんだけど、ちょっと検査の影響で、今あんまり見えてなくて」
『今すぐ迎えに行くからっ!!』
「えっ?いや、少し休憩すれば戻るんだけど?今、薬で瞳孔開いててね?」
………切れてる。

今すぐって言ったって、病院の名前も場所も教えてないんだけど?…むね君に聞いたのかな?でも今朝、僕が出る時まだ、むね君寝てたよなぁ。どうしようかと思ったけど、見えてないからどうしようもなくて、当初の予定どおり座って待ってようと思った時だった。

「郁彦ぉっ!!!!」
「え?」
あり得ないはずの声が聞こえた方向を見ると、白くぼやけた視界の中、確かにその姿は敦史だ……と、思う。見えてないけど。

「郁彦ぉー、郁彦、郁彦っ、俺、俺がっ、お前の目にっ、なるからぁっ!」
ちょっと待って、何言ってんの敦史!なんかもう、それじゃ僕が失明したみたいじゃない?僕の膝に縋り付いて泣く人物の出現に、正直僕は困ってしまった。

「ちょ、出よう!恥ずかしいよ!」
検査で見えにくくなってることを知ってる看護師さんに助けてもらって、支払いは済んでた。携帯OKエリアまで連れて行ってもらって、薬局に行くのは目が戻ってからにしようと思ってた。

見たことないくらい、わんわん泣いてる敦史の手を掴んで、とりあえず促したら歩いてくれた。間違いなくこれは敦史の手だってわかって安堵すると同時に、なんとか病院からは出たみたいだけれど、さてこの先どうしよう。下手に歩くと危険だ、今の僕には信号も、すれ違う人もけったも、車さえも見えていない。『俺が目になる』とか言ってた気がするけど、敦史は僕にしがみついて泣いてるだけだし。

「ふみ兄お疲れ!オイコラ敦史!!」
知ってる声がして、それからすぐ顔の前に風を感じた。ぺしって人が叩かれた音と。

「むね君?」
「敦史に起こされて、そこのスタバで待機してた。見えてないの?」
「そ、そうだったんだ。ごめん、30分くらいで戻るって言われたよ」
「謝ることじゃないでしょ?…とりあえず、スタバ行って座ろうか」
僕の右手を取ったのは、間違いなくむね君の小さい手だった。

「しばらくまっすぐだから。足下に注意するような箇所は特に今んとこ無し」
ぐしゃぐしゃ泣いたままの敦史は僕の左手を握ってる。どーなのこれ?って思ったけど、むね君がいちいち、アスファルトに切れ目があるとか、信号が赤だからあと3歩で止まるとか言ってるから、介護に見えるはず。

むね君の誘導で、どうやら僕は、無事スタバに到着したらしい。
コーヒーの香りがする。
「ふみ兄はアイスコーヒーでいい?敦史、僕今度はダーク モカ チップ フラペチーノ」
「わ、かった」
まだ涙声の敦史が、むね君の注文に応えて席を離れた。

「ふみ兄、しつこくてごめんだけど、検査で今見えないだけなんだよね?」
「そうだよ。薬で瞳孔が開いてるだけ。30分くらい休んでれば戻るって。待合室で待たせてもらうつもりだったんだけど…」
「……俺が郁彦の目になる!とか言っといて、全然役に立たないじゃん敦史のばーか」
「むね君、手厳しいね…」
いつもの調子に、ホッとしている自分がいるのも事実だったけれど。

「だってさ、急に『郁彦目、見えないんだって!』って叫んで走って行っちゃったんだよ?そんな朝まで見えてたのに急に失明するわけないじゃん?って思ったよ、僕は」
「病院に行って、いきなり失明したら完全な医療事故じゃない」
「でしょー?……ま、そんだけ心配してたんだとは、思うけど」
「……そうだね、そうなんだね」

いきなり敦史が現れて、わんわん泣きだした時はどうしようかと焦ったけれど、今こうして、落ち着いて座ってみれば、僕のために、敦史はあんなに泣いてくれたんだってことに嬉しさを隠せない。

「ふみ兄ごめんね。僕さ、ちょっとだけ、ふみ兄のこと敦史に喋った。小さい頃、目ぶつけたんだってのとか、あとはじーちゃんもちょこっと視野が欠けてるからって話とか…」
むね君の声に元気がない。見えないと他の器官が発達するとかって言うけれど。むね君の声のトーンの違いが今の僕には如実にわかった。

「そっか。いいよ、僕も、敦史には話そうって思ってたから」
「だったら、良かった」
今度は安心したように息を吐き出す。見えない分、いろんなことがわかるようだ。
「おまたせー」
敦史が戻ってきた。隣に座ったのが気配でわかる。

「はい、郁彦アイスコーヒー」
カップが置かれた音がした場所に恐る恐る手を伸ばす。と、その瞬間、『はい』って声と一緒に、むね君の手が重なって、僕にカップを握らせてくれた。
「敦史、気が利かない」
「ご、ごめん。見えてないからと思って、ストローは挿してきたんだけど」
まだ涙まじりの敦史の声が弱々しい。

「いいよ敦史、ありがとう。…って言うか、デカくない?まさかグランデサイズ?」
「え?駄目だったの?だって宗則、今朝からそのサイズ3杯目なんだけど?しかも宗則が選ぶ奴、何気に高いんだけど?」
「値段に見合っただけの収穫はあったはずですけどー」
「あ、はい、すいません」
今日は敦史弱気だなー。ちょっと表情が見えないのがもどかしい。多分、むね君に押されて縮こまってるだろうから、安心させてあげたいんだけどな。

「い、いいんだけど、サイズ大きいと、飲むのに時間かかっちゃうよ?」
「いいんじゃないのー?ふみ兄の目が戻るまではどーせ居座るんだしー?最低30分でしょ?」
それもそうか。なんなら、僕の目が戻ってから、薬局に行ってる間も、2人にはここで待っててもらってもいいんだよな。

「つーか、ふみ兄、よく敦史に電話できたね?そんな見えないのに?」
「そ、それは、だって……」
「だってって、なに?」
そんなこと聞かないでよって言いたいけど、これだけ心配させてしまったという自覚がある今の僕に、それは言えなかった。

「敦史は、短縮1番だから、発信ボタン2回連続で押せば、敦史にかかるようになってるんだ…」
「えっ…!!」
「マジ?つか、そんな機能あったの?…うお、マジだ!すっげー!敦史愛されてんねー、良かったねー」
むね君の携帯と僕の携帯は、メーカーが一緒だから、機能や使い方はほとんど一緒。むね君の方が新しいけど。

「すっげー!でも、この機能僕使うことないかもー、でも一応登録しとこー!」
目が見えてなくても、携帯を触れば発信ボタンくらいはわかる。まさか自分も、こんなふうに使うとは思わなかったけれど。
「あ、あの、ふみっ、郁彦ぉおぉおー!!」
抱きついてきた敦史が、また泣いていた。
「もう、ウザいから泣かないでよ馬鹿敦史!お前全然約に立たねーし!」

うるせーって、僕に抱きついて泣いたまま、反論するけど実に弱々しい。
「あ、むね君すごいよね。誘導完璧だし、今もコーヒー持たせてくれたし。やっぱ、むね君も医者になりなよ!」
「目が見えない人の誘導って、むしろ介護士じゃないのー?つーか僕ぜーったいイヤ。一生勉強の職業とかお断りだし、僕みたいなジコチュー我が侭末っ子、人に尽くす職業には向いてないってー」

「そんなことないと思うけどなー」
むね君はケラケラ笑うけど、むね君が自分で言うほど我が侭だとは、僕は思ってない。
「あれは、ふみ兄だからできたの!家族だから!他人になんか無理むりムリのかたつむり!」
「えっ…?」

むね君がさらっと口にした『家族』という言葉に僕は息が詰まった。家族って、言ってくれるんだ。
本当は嬉しくて泣いてしまいそうだったけど、敦史がまだグズグズ言ってる中で、僕まで泣いたらむね君が大変だろうと思って、唇を噛んで、なんとか耐えた。

「むね君、ありがとう」
「なにが?」
「…なんでもないよ」
正直に言ったら、むね君に怒られそうだったから、言わなかった。
『まだそんなこと思ってたの?ウチはとーっくに、男3人兄弟なんですけど?』って。

「…で?検査結果、どうだったの?ここで言えないようなら、帰るまで待つけど」
コーヒーが半分くらいに減って、一息ついたところで、むね君が切り出した。敦史もさすがに泣き止んだ。
だんだん薬の効果が切れて、見えるようになってきている。今なら、普段のメガネ無しの時と同じくらいは見えているかもしれない。ただ、全部のものが二重になってるけど。

「あ、あのね、それがね」
隣の敦史がごくっと息を飲んだのがわかった。どっちかって言うと、むね君の方が落ち着いてるような気がする。
「眼圧がね、すごく下がっててね、このまんまだったら、目薬も減らせるね、って」
「へ?」
間が抜けたような声は、どっちのものだったんだろう?両方かな?

「ええと、郁彦。それはつまりだな、そのー」
「良くなった、ってこと?」
2人が交互に言葉を紡ぎ出す。説明下手くそでごめんねって思いながら僕は続けた。

「う、うん。そういうこと。…な、なんか、ストレスとかも、関係あるみたい」
「…それってつまり、こっち来てからストレスないってことだよねぇ?」
「う、うん、そうだね、僕、こっち来て良かったよ、本当に……」
「ばーちゃんに電話してくるっ!!今日は赤飯じゃあぁあっ!!」

言い終わるより早く、すごい勢いでむね君が席を立ってばたばた走って行ってしまった。
「…なんだよアイツ、俺になんにも言えねーじゃん!」
敦史の言葉を聞いて、さっき、僕からの着信を受けた時の敦史もあんな感じで、病院まで走ってきたんだろうっていうのが想像できてしまった。

2人の反応から、ここで待ってる間も、悪い方に悪い方にばっかり考えてたのかなって思っちゃった。人のこと全然言えないじゃん、2人とも超ネガティブ。いっつも『もっと自分に自信持てー!』とか言われるのは僕の方なのに。
外で、飛び跳ねたり、くるくる回って踊りながら電話してるむね君の姿が、ガラス越しに見えているらしくて、敦史がようやく、笑った。

「敦史。心配してくれて、ありがとう。なんか、大丈夫みたい」
「うん。…良かった!」
敦史の声に、また涙が混じる。

「なんで泣くのー?」
「泣いてねーよ!なんだよ、見えてんのかよ?」
「声でわかるよー」
だって、大好きな人の声だもの、とは。照れくさくて口に出して言うことはできなかった。






















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