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scen2-09 ビスマス結晶


「とりあえずなんか食べよう〜!」
大広間に着くなり、ぱたぱた走り出した弟をフレデリクは苦笑いで見つめた。果たして自分に、こんな無邪気な時期はあったのだろうかと疑問に思う。

広間はすでに、招待状を持った貴族や有力商人が多く集まっていた。
全ての入り口を王宮警備隊員が固めてはいるものの、招待状で中にさえ入ってしまえば、広間では自由だ。エルメルがしれっとした顔で、入り口に立っていた。もちろん制服で。

(あいつ、なかなかいい職についたものだな)
あれなら、面倒くさい行事を欠席することにはならない上に、気を遣いすぎて胃が痛くなることもないだろう。

「体調はどうだ?熱は下がったか?」
声をかけてきたのは、自分の従者ではなく、公爵家の次男として、この宴に参加しているヴィクトルだった。
「心配かけて、すまない」
「構わないよ。…おかげで、あの子から有意義な話が聞けたからね」
「有意義な、話?」
「それはまた今度だ」

そのままヴィクトルは行ってしまった。公爵家によく出入りしている貴族が、彼のところに近づいてきていたからだった。
国王や王太子の前にはもう、謁見の長い列ができている。マルティアス兄上の周りには法曹関係者。何食わぬ顔で兄上の横にいるのは法務大臣だ。あいつが裏でなにをやっているか、マルティアス兄上は知らないんだ。そいつは、あんたの大事な弟を傷つけているんだぞって、この場で叫んでやりたい。

大皿ごと抱えて、サラダを食べ始めたムネレイサスの隣に農林大臣が来ていた。あいつが研究所を辞めて、一番ショックを受けたのはあの人だと思う。ムネレイサスの頭は、食糧問題を一気に解決する可能性を秘めていたからだ。その、大臣の前に卑屈そうに頭を下げながら来たのは研究所の学者。名前なんだったかな、とにかく、あいつは法務大臣の手下。なに話してるんだろう?

「先生、新しい論文、読みましたよ。新発見、おめでとうございます〜」
ありえないほどのにこにこ笑顔でムネレイサスが言っていた。論文に目を通しているということは、この弟は、研究所を辞めたとは言っても、まだその業界から足を完全に洗ったわけではないらしい。

「いやいや、これも日々の、皆の研究の成果ですから」
「そうですか。それじゃあ、第2部のデータがまるっと捏造されてるのも、皆さんの研究の成果なんですねー驚きだなー、ねえ、大臣」
棒読みで同意を求められた大臣の方が驚いていた。

「根拠もなしに捏造などと言うと、名誉毀損で訴えるぞ!」
「訴えたかったらどうぞー。僕が残したエルフ語のメモを解読した根性だけは認めてあげるけど、どうして検証しなかったの?僕のメモに、本当のことしか書かれてないだなんて、誰が言ったの?」

「貴様のメモなど知らん!」
「ああ、そうなんだ。じゃあ楽しみにしててね。今僕も、論文書いてるから。大臣も読んで下さいね」
なんだかよくわからないが、ムネレイサスは放っておいても大丈夫そうだ。あの学者だって、堅物として有名な農林大臣の前であからさまに手を出したりはしないだろうし。

薬でぐっすり眠らされたお陰で、フレデリクはいつもより、頭がすっきりしているような、そんな気分だった。
今日会ったのがあまりに久しぶりだから、なんとなくだけど、ムネレイサスは少し変わったような感じがする。
離宮に住んでいた頃より、強くなったというか、したたかになったというか。それが兄のところへ行ったおかげだというなら、こんな嬉しいことはない。

少しくらい自分も食べておかないとメルヴィに怒られるかなと思って、近くの魚料理に手を伸ばそうとした時だった。
「フレデリク!フレデリクはいるか?」
謁見の列を前にした、父に呼ばれた。

「はい、今行きます」
わざわざ自分を呼ぶなんて、なんだろう?

************

「久しぶりだな、ドーグラス!」
がっちりと握手を交わした後、お互いの背中を叩いて再会を喜びあう王太子アルフォンスと、リベラメンテ軍第一隊、通称青服の第1班班長ドーグラスである。

「先月も会ったような気がしますけど」
少し離れたところで、2人に声を掛けたのは、ドーグラスの妻ベアトリスだった。
「はっはっは、それを言うな、ベアトリス。小さい頃は毎日一緒だったんだから」
「いくつになってそんなことばかり言っているのよ」
この3人、集まると一番強いのはベアトリスだったりする。

「おや?その娘は?」
ベアトリスの横に控えていた女性を目に止めたアルフォンスが尋ねた。
「今日の私のドレスを仕立てたのも、髪を上げてくれたのも全部この子なの。可愛いでしょ」
「申し訳ない、殿下。この娘を、ベアトリスがどうしても連れて行くと申しまして…」
ドーグラスは少し、困った表情をしていた。

「挨拶なさい、イングリッド」
緊張のせいだろうか、少し震えながらイングリッドと呼ばれた女性は前に歩み出た。
「お初にお目にかかります、王太子殿下。イングリッド・ハンメルトと申します」
膝を折って、正式な礼をして見せたイングリッドに、王太子は目を細めた。

「この娘のドレス、あなたの趣味だね、ベアトリス」
「さすが殿下ですわね。私ももう少し若かったら、こういう今風の、短いドレスも着てみたかったのよねー」

水色で胸元が大きく開き、膝丈のふんわりしたデザインのドレスをイングリッドは身につけていた。ヒールの高い靴から繋がった濃いピンク色のリボンがふくらはぎにまで達して巻かれているため、そんなに露出の多い印象はない。

「何を言ってるんだ。こんな短いのは、許さないよ!」
「まぁ、あなた、相変わらず頭が硬いのね」
「ベアトリス、それがドーグラス兄上のいいところじゃないか」
アルフォンスはにこにこ笑っていた。

「そうか、ベアトリスがそこまで気に入っている娘なら、私もそれなりのもてなしをしなければならないね」
アルフォンスは歩み寄り、イングリッドの手を取って引き寄せた。
「フレデリク!フレデリクはいるか?」
王太子はよく通る声で、息子の名を呼んだ。

「はい、今行きます」
少し離れたところから返事が聞こえて、しばらくすると第2王子フレデリクが姿を現した。
「お呼びでしょうか父上」

すっと膝を付いてかしこまった体勢から、顔を上げた瞬間、間違いなく一瞬だけ、フレデリクは『あっ!』というような顔を見せた。
「この娘はベアトリスのお気に入りだそうだ。お前、庭でも案内してやりなさい」
「か、かしこまりました」
フレデリクの声が震えていた。突然王子に引き会わされたイングリッドも同様に。

「ほら、早く行きなさい」
「は、はい。…では、姫、あ、案内、致します」
「ゆっくりしてらっしゃい」
ベアトリスの笑顔に、二人は送り出された。

「殿下、今のは…?」
「これでいいのよ、あなた。今はこれで」
「もう、また二人で私に隠し事ですか?」
「そんなつもりは、全くないんだけどな」
ひとしきり笑った後、ドーグラスとベアトリス夫妻は謁見の列から離れた。

「お父様、お母様〜!」
そこへ駆け寄って来たのは、マルティアス一行である。
「ウルリーカぁあぁ!」
青い制服の娘を見つけるなり、ドーグラスは駆け寄って抱きしめた。

「お、お父様、人前で、それはどうかと…」
生まれてすぐ、赤ん坊の時からウルリーカを王宮で育てることには、ドーグラスも同意していた。しかし、たった一人の娘を自分の元で育てられなかったせいで、ドーグラスはとにかく娘に甘い。娘に会う度にこの調子で、未だ酒が入ると『手元に置いて、都一の貴婦人に育てたかった』と嘆くのだった。

「いつものことよ。どうせ部下の皆様も見慣れてるわ、ねぇ、オルヴァー」
「…まぁ」
きょろきょろ周りを見渡してみると、ダールクヴィスト伯爵代理で来ているヘルゲが、引きつった笑顔で頷いていた。オルヴァーを見つけて、声をかけようと思ったところで、鬼と呼ばれた自分の上司の豹変した姿を見てしまい、動けなくなったようだった。ヘルゲは、周りを見渡した後、ひらひら手を振って、離れて行ってしまった。
親孝行だと思って、しばらくそうやって父親に抱きつかれてなさいと、母に言われてしまっては、ウルリーカもなにも言い返せない。

「ベアトリス、今日は2人で来たのかい?」
人が少ない方へ皆を誘いながらマルティアスが尋ねた。普通は2人くらい従者を連れてくるものだ。ただ、この二人の場合、ベアトリスがこの上なく強いから必要ないのだが、世間体というものが別の問題として存在する。
「クリスティアンが帰ってきたから、従者代わりに連れてきたんだけど…どこ行ったのかしら?」

「えっ、クリスティアン様…?まじっすか?」
なんとなく嫌な予感がして、周りを見渡すオルヴァー。確かムネレイサスはさっき、サラダの前で農林大臣と話していたんじゃなかっただろうか。

「すっごーい!なにそれ!酸化皮膜の色なの?着色じゃないの?うっわー、きれーい!」
「ベアトリス様…遅かったかもしれないっす」
バルコニーに近い、広間の端の方から感嘆の声が聞こえて、オルヴァーが肩を落としてため息をついた。あまり話さない方がいい、近寄らないほうがいい、気に入られて離してもらえなくなると言ってあったはずなのだが。

「融点は271.3℃なので、鍋に乗っけて竃に火ぃつけてやればすぐに溶けるんですよ!金属なんですけどねー」
「じゃあ、オルヴァーの実験室でもできるかな?それ、どこで売ってるの?すぐ買える?」
ムネレイサスの声は、興味津々といった風だった。そりゃそうだろう、実験とか検証とか、大好きなんだよな、あの子、と、オルヴァーは思った。

「もしや我が弟分のオルヴァー・イスト・ライルをご存知ですか?もちろん売ってますし、買えますよ。他の窒素化合物の多くが毒性であるのに対してこいつはむしろ薬になる。無毒だから他にも、化粧品や塗料にも使える」
「最高だね!研究すれば、もっとほかにも使い道広がるかもしれないし!熱伝導性はやっぱり低いのかな?硬度はどれくらい?磁性はあるの?展性延性は?酸化化合物になったりする?」
目を輝かせて食いつき、質問攻めにするムネレイサス。離してもらえなくなる以前に、ムネレイサスの方から積極的に懐いてしまった。これは予想外だ。

「なにをやっているのクリスティアン!」
盛り上がる2人の後ろから近づき、クリスティアンの頭に拳を下ろしたのはベアトリスだった。
「いってぇ!あ、母さん、どこ行ったのかと思ってたよー」
「ベアトリス様……?あれ?そういえば、お兄さん、誰?」
不思議な色の、謎の結晶を持っていたお兄さんにムネレイサスから声を掛けたとのことだった。

「私は通称青服たる第一隊の第1班班長ことドーグラス・サウル・プルシアイネン伯爵、及び、エアリス州領主ノルダール家当主、ベアトリス・ニーナ・ノルダール伯爵が次男、クリスティアン・ヴェイニ・ノルダールです。…あなたは?」
「ちょっと、お兄さま!」
もちろん、初めて会ったのだから、顔を知らないのはお互い様であった。お互いに顔を知らなかったがために、オルヴァーの助言は無駄になってしまったらしい。しかし、ウルリーカの鋭い声の意味は、『いくら顔を知らなくても、服についてる百合と剣の紋章に気がつけよ!』という意味のもの。

「僕は、国王陛下の12番目の孫で、王太子アルフォンス殿下の第4王子、ムネレイサス・ソイニ・ヴァルンブロームですっ!えへへ、ウルリーカのお兄さんだったんだ、初めまして!」
「お、王子殿下とは知らず、申し訳ありませんでしたーっ!」
ようやく、母や妹が怒っている理由がわかって、深々と頭を下げるクリスティアン。
「いいよいいよ、面白かったからもっと話聞かせてよ!ほかに結晶持ってないのー?」
そんな身分が違うとか王子に対する言葉遣いがどうとか、そんなものはどうでもいいからもっと結晶が見たいムネレイサスだった。

「ベアトリス様、すみません、俺、忠告したんですけど…。今日いらしてるってわかってたら、念押ししたのに…」
がっくりと肩を落とすオルヴァーを目ざとくクリスティアンが見つけた。

「おや、オルヴァーじゃないか!久しぶり!どうして返事の一つもくれないんだい?あの実験やってみた?」
「俺は忙しいんですよ。だいたい、なんだってあんな、爆発しそうな化学式ばっかり送ってくるんですか!」

「じゃあ、こないだ送った実験器具だけでも作ってみてくれよ!頼むよー!」
駆け寄ったクリスティアンは嬉しそうに詰め寄った。定期的にオルヴァーに届く手紙に、ことごとく怪しげな化学反応式が書かれていることは、ムネレイサスも知っていた。

「2人共、騒ぐなら外に出なさい!」
「俺なんですか、怒られるの…」
とばっちりを食った形のオルヴァー。確かに、王子が2人、それから未だ娘に抱きつく第一隊の隊長。注目されるだけの理由があるメンバーではあった。

「しかしオルヴァー。俺は嬉しいよ。まさか、ビスマスの結晶で、王子が釣れるとは思わなかった!薬学界の未来は明るいぞ!」
「この方は特別です。だいたい、ムネレイサス様の専門は植物生理学。小麦の新種、知らないんですか?」
「ええーっ!!」
クリスティアンの悲鳴が響き、目を丸くしてムネレイサスを見るが、第4王子はへらっと笑っただけだった。あれだけ専門用語がすらすら出てきて質問攻めにされたのに、専門外だとは。

「ごめんなさい、僕薬学専門じゃないんだ。オルヴァーの研究室でしょっちゅう遊ばせてもらってるけどね」
「まさに遊んでらっしゃいますよね。おかげで氷酢酸の消費が激しいです」
「ご、ごめん。酢酸カリウムの融雪剤、作ってみたかったんだ」
「はぁ?……そりゃなくなりますね、うん。まさか畑に撒いたんですか?」

「畑には撒いてないよ。畑なんかに使う量作ったら、とっくにオルヴァーの氷酢酸なくなってると思うけど」
「ああ、そうですか」
使い方を間違えたりせず、性質もわかっているなら、ある程度は好きにしてくれてもいいと思っているオルヴァーだった。ただし、ムネレイサス限定で。それ以外の者には絶対に、自分の薬品を触らせたりはしない。

「なんだよオルヴァー、すっげー楽しそうじゃんお前!羨ましい!他になんか成果ないのかよ?」
「成果と言えるかどうかわかりませんが、こないだ元素分析に成功しましたよ?」
「な、なんだって?その話、ちょっと詳しく!」
興奮気味のクリスティアン先頭に、3人は話しながらバルコニーから出て行ってしまう。

「申し訳ありません、マルティアス様。こんなつもりでクリスティアンを連れてきたのではなかったのですが…」
自分の息子と弟子がある程度盛り上がることは想像していたが、まさかそこにムネレイサスまで加わるとは思っていなかったベアトリスだった。

「謝ることないよ、ベアトリス。ムネレイサスが楽しそうで俺は嬉しいんだ。正直俺には、あの3人が何を話してるか、さっぱりわからないからね」
酸化皮膜、熱伝導性。展性、延性に、酸化化合物、氷酢酸、元素分析。マルティアスにとっては、魔術師が使う呪文にも等しい言葉がぽんぽん発せられていた。

「そもそも融点ってなんだっけ。唯一なんか聞いたことある単語なんだけど!」
「そこからなのですね、マルティアス様」
仕方がないこととは言え、ベアトリスは頭を抱えていた。

「マルティアス様は昔っから、理科だけは全くできませんでしたからね。向日葵も枯らしてたし」
「ゆ、言うなよウルリーカ!」
「そんなこともあったわねー」
その話を聞いたムネレイサスに、『僕の実験用の畑には入らないでね』と言われてしまったことがある、マルティアスなのだった。


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