scen1-19 咽び泣き
「お待ちくださいムネレイサス様!…どちらへ?」
ずっと、追いかけてきたサーラは、ムネレイサスが自分の部屋の前を素通りしたことで、一層不安を覚えた。
さっきから一言も応えてくれない。
「オルヴァー、入るよ」
ムネレイサスは、隣の、オルヴァーの部屋の扉をノックして、返事も待たずにそのまま入っていった。
「ムネレイサス様、あの…」
さすがに、返事もないオルヴァーの部屋に入ることは躊躇われるサーラである。しかし、困り果てて扉の前で立ち尽くしていると、すぐに扉が開いた。
「ムネレイサス様」
「サーラ、僕の部屋から救急箱持ってきて」
「は、はい!」
走って、言われた通り救急箱を持ってオルヴァーの部屋の扉をノックすると、ムネレイサスの声で返事があった。
「早くきて」
「は、はい」
部屋に入ると、オルヴァーは両足を投げ出すようにソファに座り、その横にムネレイサスがオルヴァーの方を向いて膝で立つような形で座っていた。
先ほど垂れていた血は拭われ、ムネレイサスはオルヴァーの頬に袋に詰めた雪を当てて冷やしている。オルヴァー本人は、うつろな瞳で、なにも見えていないようだった。
「サーラ、消毒と絆創膏」
「は、はいっ!」
ムネレイサスが、オルヴァーの唇の端にガーゼを当て、テープで止めた。
「いいよ、別に、俺なんか…」
「良くないからっ!」
「…いや、いいんだ、もう。俺、いらねぇってさ、マルティアス様」
オルヴァーにとっては、死刑宣告に等しい言葉だった。
「もう、俺、生きてなくても、いいかなぁ」
「なに言ってんだよ!散々僕に、後ろ向きになるなとか、自分に自信持てなんて言ってたくせに!」
「ああ、ごめんな。偉そうなこと、言ったな、そういや」
「言ったからには責任取ってよ。そんなこと言うなよ!」
「…でもさ、俺には、マルティアス様しか、いないから」
こんなオルヴァーは見たことがなかった。どうしたらいいのか全くわからない。自分が、なにをしたって、駄目かもしれない。でも、だからって、放っておけない。
「わかったよ!僕も出て行くから。っていうか、僕離宮帰るから。とりあえずオルヴァーも行くよっ!」
「何言ってんだお前は。なんで俺まで」
「いいから行くのっ!ほら、立ってよ」
あまりにもムネレイサスがしつこく腕を引っ張るものだから、仕方なくオルヴァーは立ち上がった。そうだ、どうせ自分はもう、ここにはいられないんだ。でも、だからと言って離宮のあの雰囲気もなぁ。
「ほら、早く!僕もうここにいたくないから!ねぇってば!…サーラも来る?」
名前を呼ばれ、ムネレイサスに引っ張られるようにふらふら歩くオルヴァーの後ろをついて歩き始めたサーラだったが、3階に降りたところで足を止めた。
「ムネレイサス様。私は、残ります」
「…そう。元気でね」
それっきり、ムネレイサスは振り返らなかったが、サーラは信じようと思ったのだ。こんなことで、2人の兄弟の仲が、あれほど信頼し合っていた王子と従者の関係が終わってしまうはずはないと。だから2人は必ず帰ってくると。
1階に降りて、どんどん回廊を進んでいくムネレイサスだが、だんだんと足取りが遅くなってきていた。いや、西の塔を歩いている時が早足だったのだろう、今は通常の、ムネレイサスの歩くスピードなのかもしれない。
「俺、離宮の雰囲気苦手なんだけどー」
「そんなの、すぐ慣れるよ」
振り返らないムネレイサスの声に、明らかに涙が混じっていた。
「…泣くならなんで、出てきたんだよ?なぁ?」
ようやくムネレイサスは、ピタリと足を止める。
「ぼく…」
「どうしたんだ?」
あまりに呆然としていたせいで、西の塔中に響いた、ムネレイサスがマルティアス相手に怒鳴った声は、全く聞こえていなかったオルヴァー。
「マルティアス兄上に、大っ嫌いって言っちゃった。…二度と、顔も見たくないって、言っちゃったぁああ」
うわあんと声を上げて泣くムネレイサスの姿を、オルヴァーは初めて見た。
攫われて酷い目に遭ってもほとんど泣かなかったムネレイサスがしゃくりあげるほど泣いている姿を見て、逆にオルヴァーは冷静さを取り戻していた。
「とりあえず、俺も出て行けって言われたし、置いてもらえるかどうか知らないけど、まず離宮に行くしかないか」
泣いているムネレイサスを抱き上げて、離宮に向かって回廊を歩く。オルヴァーの首にしがみついて、ムネレイサスは泣き続けた。
「マルティアス兄上、ごめ、なさっ、ホントは、嫌い、じゃない、の、にっ」
「だったらなんでそんなこと言ったんだよ?」
「だっ、て、オル、ヴァーに、ひどい、っ、ことっ、言って、っ」
「あのなぁ。…俺は、殴られるくらいはあるだろうなぁって、覚悟してたんだぜ」
ベアトリスの説得に応じたように見せても、多分心の中では納得していないだろうと。1回は必ず聞かれるだろうと予想していたというオルヴァーの話を、ムネレイサスはしゃくりあげながら聞いていた。
「それでも言うつもりはなかったぜ。あの人にだけは知られたくないって、お前との、男と男の約束事だからよ」
「オルヴァー…」
うわぁんと、ムネレイサスはまた声を上げて泣いた。
「あとなー。マルティアス様がもし、今回の本当のこと知ったらなー。あの人のことだから、怒り狂って1人で公爵んとこ乗り込みそう…ってのもあるんだよ、ちょっとだけ」
「それっ、は、っ、さす、がに、駄目だ、よっ?」
まだしゃくりあげながら。そう、できるかできないかは置いといて、この13歳のムネレイサスでもわかっていてやらないことを、マルティアスはしそうなのである。
「そりゃそーよ。相手は公爵だからな?普通は、いろんなこと考えて、好機が訪れるまで待つもんだ。だけどあの人、将来とか、先のこととか、なんにも考えてないんじゃねーかなって、たまに思うんだよな」
ため息をつきながらオルヴァーは肩をすくめた。第1王子の自覚というものが、自分が口うるさく言うことで生まれるならいくらでも言う。しかし、こればかりは本人が自分で意識してもらわないと、どうにもならないことだった。
「そう、だね、っ。…こな、いだっ、『次の、王、太子が、誰に、なるか、なんて、どうでも、いい』って、言ってた、から、びっく、り、しちゃ、った」
「泣くか喋るかどっちかにしなさいよお前さんは」
嫌そうにそう言いながらも、オルヴァーはちゃんとムネレイサスの言葉を聞いていた
4番目の自分が言うならまだしも、一番、次の王太子に近い場所にいる人が、そういうことを言うという事実に驚いたのだ。だからきっと、第2王子のフレデリク兄上の方が相応しいとか言い出す輩が出てくるんだと思う。フレデリク兄上、優秀だし。
「いっそお前がなっちまえば?剣抜いてくりゃいいだけなんだろ?」
だんだんとムネレイサスの涙は収まってきたように感じる。
「なんで、僕?むしろ僕、国王とか、なりたく、ない方なんだけど」
「お前もかよ。まー、そりゃそうだよな、お前、研究してる方が楽しそうだし」
ムネレイサスや、第3王子エルメルのように、はっきりと『なりたくない』という意志がある方がマシだと思った。マルティアスは、『なりたい』も『なりたくない』も、考えたことがないんじゃないかと思う。確かに、三男、四男と違って、『なりたくない』という意思表示をしたところで、それが認められるかどうかというのは別問題なのだが。
ちなみに、第3王子エルメルはすったもんだの末に王宮警備隊員になったが、正式に王位継承権の放棄が認められたわけでもないし、王宮から出て、違うところで暮らすことを認められたわけでもない。『なりたくない』という意思表示をしても簡単に認めてもらえないのは王子皆一緒である。
「国王陛下も、アルフォンス様もわかってると思うんだよな。だから、早く結婚しろってうるさいんじゃねーかと思う。結婚すれば、守るべき対象ができれば、自覚も生まれるんじゃねーかって」
引き算をしていくと、王太子アルフォンスが結婚したのは23歳か24歳と見るべきなので、現在21歳のマルティアスが特別遅いということはないような気がする。にも関わらず、いい加減なんとかしろと、国王、王妃、王太子3人がかりで言うには、何か別の理由があるのだと考えるべきじゃないか。
「そんなに結婚しろって言われてるのに、僕なんか引き取って良かったのかな?」
自分の首にしがみつく、ムネレイサスの手に力が入った。
「あー。…大丈夫じゃねー?だって、いくら周りに言われても、本人にそのつもり全然ねーからなー」
そのつもりがあれば、いつまでも絶対に結婚できないことがわかっている人と付き合ったりしないだろう。
(あれ、もしかして、あの人と付き合ってるのがバレて、それで余計、嫁もらえって言われてんのか?)
「…なんか、僕のせいでマルティアス兄上の結婚遅くなったとか言われたら嫌だなー」
一瞬浮かんだ考えを、オルヴァーは慌てて頭の外に追いやった。
「うーん、それはないんじゃねーか?だって、他の要因の方が多すぎるもん。そのね、詰めが甘いところも、好きなんですけどね、俺は」
「オルヴァーより絶対、僕の方が兄上のこと好きだからっ!」
「なんだとお!?」
大嫌いって言ってしまったと、泣くくらいだから、そんなことわかってたけど。
でも俺だって、出ていけと言われて人生が終わったような気がしたくらいは、マルティアス様のことが好きなんですよーだ。
そんな話をしながら歩いて、ムネレイサスを抱っこしたまま、オルヴァーは離宮エリアに足を踏み入れた。
来るのがわかっていたような顔で、ユスティーナは屋敷の外へ出て2人を待っていた。多分、本当に来るのがわかっていたのだろうと思う。ユスティーナによって、オルヴァーも屋敷の中へ招き入れられた。
「ほら、着いたぞ」
泣き止んでいるはずなのに、ムネレイサスはオルヴァーから離れなかった。
「いいですよ、そのままで」
「すいません」
ムネレイサスを抱いたまま、仕方なくオルヴァーはソファに座った。
「先日はお世話になりました」
「あ、いいえ。こちらこそ」
当然、自分たちが無事に帰ってきていたことなど、ユスティーナは知っていただろうが、ちゃんと報告はしていなかったことを思い出した。
「ムネレイサス様。オルヴァー様にも、ここにしばらくいてもらいましょうね」
「いいの!?」
ずーっとオルヴァーにしがみついていたムネレイサスが、ようやく顔を上げた。
「あなたがそんなにくっついていたら、駄目とは言えないでしょう?」
ユスティーナの表情は穏やかだった。
「なに、お前そういうつもりでくっついてたの?」
オルヴァーの質問には顔を背けるムネレイサス。
「そんなことしなくても、オルヴァー様だけ追い出したりしませんよ」
やっぱりユスティーナは、さっき西の塔で何があったか見てたんだろうなと思った。
「わかってるけど。…でも、オルヴァーなんか、離宮苦手だって言うし」
「それは仕方ないでしょう。2、3日、あなたの部屋にいてもらいなさい」
「あ、あの、俺、本当に、いいんですか?ここにいて」
西の塔を追い出されると、実は行くところがないオルヴァーである。両親も自分と同じく勤務先に住み込みで働いているし、姉も妹も嫁に行ったせいで実家というものがない。青服の寮があって、入寮の資格は満たしているものの、現在空いているかどうかはわからないし、今日からいきなり入れるものでもない。最後の手段としては、それこそヘルゲの屋敷にでも行けば喜んでいくらでも泊めてはくれるだろうが。
「構いません」
「なんで、2、3日なの?それ以上いたら、駄目なの?」
「何日待っても、現状が変わらないようであれば、別のことを考えなければなりませんよ」
その言葉を聞いてムネレイサスは下を向いた。
「でも俺は、マルティアス様に何を言われても、なにがあったか話すつもりはないので、事態が好転する可能性は、低いような気がします」
そうなったらどうしようと、思わなくはないが、それはその時に考えよう。
「オルヴァーごめんね、僕のせいで」
「お前のせいじゃねえ」
オルヴァーは荒っぽく、ムネレイサスの頭を撫でた。
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